midori-ramao2006-05-08

アマスヤ → サフランボル (トルコ)
8時か9時、台所から物音がするので起きたら、グリザッシュが朝食の準備をしていた。ディレキは「ジェラルドの寝返りがすごくて寝不足」とあくび。
ホテルと同じような朝食内容だが、チーズはディレキの手作りらしい(ジャムもか?)。そしてグリザッシュが時間をかけ、揚げてくれたフライドポテトがメインディッシュ。連れが「アリは?」と聞くと「まだ寝てるよ」と言いってわざわざアリを起こしてくれた。今まではあまり動いてなかったオキュタイは急にホストぶりを発揮してテーブルを運んだり、パンを切ったりしていた。
食卓をみんなで囲んだ朝食後、チャイを飲みながら我々の日本での生活などの質問に答えたりして過ごしていたが、9時半を過ぎてもゆっくりしてるので「仕事は?学校は?」と我々二人はだんだん心配になってきた。ようやくグリザッシュ夫婦が帰り支度をしたので、ハグして別れた。結局、次女のギョルとは会えなかった。昨夜お茶に誘われたのも寝る前に何か話したそうだったのも今日会えないからだったのか・・・。
いつもは口数少ないオキュタイが、連れに「TAKA、トランプ面白かったな!」と嬉しそうに話していた。トランプを一緒にしたことでオキュタイは連れに親近感を抱いたようだ。書き忘れたが昨夜、トルコの大手銀行らしいAKA BANKの支店前を通った時、ディレキは昔の社員証を見せて「私はここで働いていたのよ」と説明し、その後小さな写真をくれた。今はどうやら医者の受付か事務をしていると解釈。今日は私達を送ってから勤めに出るという。ジェラルドの学校は13時〜19時との事。オキュタイの仕事は何かは不明。
10時15分過ぎトイレから出たら、ディレキに「髪を洗うから手伝って」と言われ、風呂場に行きシャワーで彼女の頭に水をかけた。その20分後に慌てて家を出た。
ディレキは歩きながら「寂しいわ」と言い腕を組んできた。途中兄ではなく叔父らしいムラートの店にも寄り、別れを告げた。バスカウンターに時間通りついたが、なかなか迎えのバスが来ない。連れも私もここに来る途中は色々な感情が相まって、泣きそうになっていたが、あまりにも待たされバスターミナルの出発に間に合うかどうか不安が強くなり感動も薄れた。ジェラルドは最後までデジカメにこだわり、操作方法もかなり覚え、気に入ってない写真は消すことまで覚えて、「シュー、シュー!(消して消して!)」と言ってはボケた写真を撮り続けていた。
やっと来たセルヴィスに乗った我々は3人と別れた。さらばアマスヤ、さらばディレキ一家!アマスヤでの滞在は我々の旅のクライマックスだろう。アンカラまでのバスの途中はディレキ一家の思い出にしばし浸った。
バス休憩所で茄子と挽肉の煮込みをピラウにかけたものを半分ずつ食べた。

カッパドキアまでのバス選択で騙されたため、嫌な思い出の場所となってしまったアンカラのオトガルに到着。今度は気を引き締めてバスを捜そうと思っていると「サフランボル」と言っているおじさんがいたので直行便と確認し、チケット購入し、バスに乗り込んだ。
サフランボル行きは多発しており、何社も競行しており、道路でもバス同士がスピードを競争しているように見えた。サフランボルへの3時間はあっという間だった。オトガルからミニバスやセルヴィスは出ているように見えない。タクシーに乗ろうと「歩き方」に出ている「10YTL」で交渉するとタクシー会社のおっさんが「7YTLで着くよ」と言うので乗った。
旧市街の中心広場へ。時間も遅いので「歩き方」に載っていたちょっと高めの古民家を改造したホテルに行く。Wベット、ツインは75YTLと提示されたが「ここ(「歩き方」)には60YTLと書いてある!」と云うと負けてくれた。下におりるとオーナーがチャイを御馳走しながら、「このホテルは5年前まで住んでいた家を改造したものでサロンは馬小屋で(オーナーの)おじいさんが住んでいた頃は白い馬がいたんだよ」と話してくれた。それ以上、話が広がらないようなので「美味しくて安いロカを教えてくれ」と頼むと「どこでも高くないし、美味しいよ」との答えが返ってきた。
広場のとこにある「歩き方」に出ていたサフランボルの郷土料理を出すロカに入った。21時半過ぎに入ったからか、店内にはほとんど客はおらず閑散としていた。名物のケバブとシェードピラウとなんとかピテを注文。ものの5分で出てきた料理は作り置きで冷えておりパサパサして美味しくなかった。この旅において最悪の夕食だった。